Processing math: 100%

MENU

【量子力学入門09】物質粒子の確率波2

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

物質粒子の確率波2

確率論的な立場

確率波の立場から考えると、前回議論した波動論に対する反論は解消されます。私たちが考えているのはあくまで粒子であり、波が拡散するという現象は、単に粒子が空間の特定の場所に存在する確率が低くなることを意味するだけだからです。

次に、粒子の数が多い場合についてです。この場合、各粒子が空間のそれぞれの点に存在する確率を求めることになります。そのため、確率波は多くの粒子の座標を変数とし、必然的に仮想的な高次元空間における波として表されるのは当然のことです。

確率波は、私たちの体や住む場所が存在する三次元空間を伝播するものではなく、粒子に関する私たちの知識を表すものにすぎません。

たとえば、遠くの空に小さな点として見える飛行機を、一瞬だけ窓を開けたときに確認し、すぐに窓を閉めたとします。

この場合、飛行機がどの方向に、どの速度で進んでいるかは全く分かりません。しかし、その後の飛行機の位置をある程度の確率で推定することはできます。最初に観測した点を中心として、飛行機が出せる最大速度に、観測時点から現在までの時間を掛けた距離を半径とする球を考えれば、飛行機は現在その球の中のどこかに存在していると推測できます。そして、その球の中の任意の点に存在する確率は同じであると考えられます。

この球は、初めは一点に集中していましたが、時間の経過とともに半径が広がり、最終的には非常に大きくなります。その段階では、飛行機が空間のどこかにいるという以上のことは言えなくなり、それは飛行機の位置に関する知識が全くない状態と同じです。この例での球が、確率波に相当します。この球が山や雲のような空間的実在性を持つものではないことに疑問を抱く人はいないでしょう。つまり、これは単に飛行機の位置に関する私たちの知識に過ぎないのです。

再び窓を開けて、北以外の方向を素早く観察し、その方向に飛行機がいないことが分かったとします。この場合、それまでの完全な球は北方に広がる錐状の部分を残して消え去ります。これは、北以外の方向に飛行機が存在する確率がゼロになったことを意味します。しかし、時間が経つにつれて、この残った錐状の部分は次第に広がります。次に、再度窓を開けて北の空の一点に飛行機を確認した場合、その瞬間に確率波は一点に凝集します。

ただし、確率波が常に拡散するわけではありません。たとえば、その飛行機が特定の都市間の定期便であると分かっている場合、初めに考えた確率波は時間とともにどこまでも広がるのではなく、航空路の近くで密度が高く、その周囲から離れるほど密度が低くなる定常波のような形になります。同様に、電子が陽核の近くに存在するときは、引力によって電子は陽核から離れにくくなります。そのため、電子の確率波も陽核の近くで密度が高く、遠ざかるにつれて密度が低くなる一種の定常波になります(詳細は水素原子のところで詳しく説明します。)。

以上の説明により、確率波として解釈するならば、シュレーディンガーの理論は波動論ではなく粒子論に属し、論理的な矛盾を引き起こすことはないといえます。従来の粒子の概念と異なるのは、粒子が確率という概念に支配されている点です。

メモ: シュレーディンガーの生涯

これまで議論の中心になってきたシュレーディンガーの生涯について、ここで簡単にまとめておきます。コーヒーブレークだと思いながら読んでください!

エルヴィン・シュレーディンガー(Erwin Schrödinger, 1887年8月12日 – 1961年1月4日)は、オーストリア出身の物理学者で、量子力学の基礎を築いた人物の一人として知られています。特に、彼の波動方程式(シュレーディンガー方程式)は現代物理学において非常に重要な役割を果たしています。

シュレーディンガーは1887年、オーストリア=ハンガリー帝国(現在のオーストリア)ウィーンで生まれました。父親は化学染料や植物学の専門家で、家庭では科学や哲学に対する関心が高い環境で育ちました。ウィーン大学で物理学を学び、特にルートヴィヒ・ボルツマンの統計力学や熱力学の研究に影響を受けました。

学位取得後、シュレーディンガーは第一次世界大戦中に兵役につきますが、戦後は物理学の研究に戻り、いくつかの大学で教職を務めました。彼は光学や熱放射、統計力学に関する研究を行い、次第に量子力学の分野に進むようになります。

彼の最も重要な業績は、1926年に発表したシュレーディンガー方程式です。この方程式は、粒子の波動的性質を数学的に表現し、ハイゼンベルクの行列力学と並び、量子力学の基本的な枠組みを構築しました。

シュレーディンガーは波動方程式を物理的な波動として解釈しようとしましたが、マックス・ボルンによる「波動関数は確率の振幅を表す」という解釈が一般的に受け入れられました。

1935年、シュレーディンガーは「シュレーディンガーの猫」として知られる思考実験を提案しました。この実験は、量子力学における観測問題(量子の状態が観測されるまで不確定であること)を議論するために設計されたもので、現在でも哲学や物理学の文脈で議論されています。

1930年代にナチスが台頭すると、シュレーディンガーはその政策に反対し、オーストリアを離れることを決意しました。アイルランドのダブリン高等研究所で教授職に就き、そこで17年間を過ごしました。この期間、物理学だけでなく、哲学や生命科学にも興味を広げました。晩年、1956年にオーストリアへ戻り、ウィーン大学で研究を続けました。また、生物学や哲学にも関心を寄せ、著書『生命とは何か』では遺伝の問題に量子力学の視点を持ち込む試みを行いました。

1961年、ウィーンで亡くなりました。享年73歳でした。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。